一筆啓上・作左の会   会の概要

協賛企業お問合せ
作左通信講演会研修旅行ふるさと賞ふるさと読本

 HOME「一筆啓上・作左の会」の概要>発足式

「一筆啓上・作左の会」発足 (平成11年12月26日)



 六ツ美西部小学校は、平成9年4月に開校しましたが、平成10年2月8日、開校年度の第1回の学芸会で、6年生が地域の伝承を掘り起こし、創作劇「本多作左衛門重次」を上演し好評を博しました。(詳細は作左通信 第101号参照

 総代会も地域興しの目玉「一筆啓上・作左の会」の創立に向けて走り出しました。そして平成11年12月26日、宮地町公民館において地元住民約180人が参加し、発足式が行われました。
 
 →コラム1 一筆啓上・作左の会発足


 < 全ページがうまく表示されない場合はこちらをご覧ください→印刷用(PDF/381KB)



◎ 発足を伝える新聞報道

   →中日新聞/東海愛知新聞(PDF/591KB)



平成12(2000)年2月5日付「岡崎ホームニュース・第707号」渇ェ崎中日サービス発行より


本多作左衛門 生誕ゆかりの六ツ美西部学区で町おこし

思いやりの心育てたい

 平成11年12月26日、「一筆啓上、火の用心、お辿泣かすな、馬肥やせ」−戦場から妻へ送ったこの手紙で知られる戦国の武将、本多作左衛門にちなんだ「一筆啓上・作左の会」(石川保夫会長)が、市内で立ち上がりました。

 どんな時でも家族を思いやった作左の人となりを町おこしに生かそうと、生誕ゆかりの六ツ美西部学区の人たちが旗揚げ。

 書簡碑の建立や文学賞創設などを計画しており、広く会員を募集しています。


書簡碑や文学賞を計画

 作左衛門は享禄二年(1529)、三河国に生まれました。
松平清康、広忠、徳川家康の三代に仕えて数々の手柄をたて、家康の天下統一に大きく貢献。
晩年は蟄居(ちつきょ)の身となり、下総国相馬郡井野の地(茨城県取手市)で慶長元年(1596)に亡くなりました。
損得を度外視して自己を貫く剛直な性格で「鬼作左」の異名をとるほどでしたが、反面人情に富んだ心やさしい人でもあったといいます。

 「一筆啓上」の手紙は、長篠の合戦(1575)のときに出したとされ、いまも簡潔な手紙の手本とされています。
文中のお仙は息子の仙千代(成重)で、後の越前丸岡城の城主。
この福井県丸同町が1993年、作左衛門にちなんで全国に向けて募集した短い手紙「一筆啓上賞」は話題を呼びました。
終えんの地である取手市でも昨年11月、家族をテーマにエッセーの「頑固者賞」を設けました。

 岡崎では宮地町の犬頭神社に作左衛門の生誕碑があり、子孫も暮らしていることから、町おこしへとつなげる話は以前から温められていました。
一昨年、六ツ美西部小学校の児童が学芸会で作左衛門を創作劇にして上演したことを直接のきっかけに、会設立の準備を推進。
昨年四月には地元の有志が丸岡町を訪ねるなど交流も始まりました。

 宮地町公民館でこのほど開かれた発足式には、地元の住民ら約180人が参加。
役員が「愛・夢・緑」の字を一文字ずつ刻んだ三脚一組の石のベンチの設置や、丸岡町・取手市との交流、書簡碑の建立、ふるさと読本の発行などの事業計画を発表、説明しました。

 「作左衛門のように人を思いやる心を育てるのが第一。事業は一つずつこつこつ進めていきたい」と石川会長。年会費は個人会員が一口二千円、企業会員が一口一万円。


ページトップへ戻る